この度の東北地方太平洋沖地震にて被災された多くの皆様謹んでお見舞い申し上げます。 また一日も早い復興を心からお祈り申し上げます。
Staff-bです。君津中央病院として、あるいは救急医として今回の震災への対応について述べておきます。ここに記載するのは君津中央病院の公式見解ではありませんし、staff-bの個人的意見と体験です。いつのタイミングでこのブログにアップしようか考えていた(のと、忙しさにかまけて忘れようとしていた)ので、幾分正確さに欠ける内容であることをご了承ください。
また、本文はあとで主に正確性を期すために改変することがあります。
震災当日、私をはじめスタッフはICU内にいました。ドクターヘリはちょうど出動中でした。旭中央病院はかなり被災したと聞きました。また、市原市ではコンビナートの爆発事故、千葉市の製鉄所の火災があり、浦安市では交通が分断され、救助を要する状態のようでした。
厚生労働省からDMAT各隊に待機要請がおり、そのとき院内にいたDMATスタッフと自宅にいたスタッフが病院に集散しました。
病院への一般回線の電話はほとんどつながらず、救急車を受けるホットラインも回線輻輳のためにつながらない状態でした。幸いなことに、当院のライフラインは全く問題がありませんでした。
しかし、どのくらいの被災者が搬送されてくるかまったくわかりません。
災害急性期対応として、ICU, HCU, 救急外来のスタッフは空いているスペースに手際よくベッドを設営していきます。院長以下スタッフは病院玄関に集まり、病院ロビーを応急救護所とすべくソファを片付けたりてきぱき動き出します。
いったいどうなっているんだ、これからどうなるんだ、という声がそこここから聞こえてきそうな状況でしたが、誰も回答を持っていない状態でした。院内の情報を統一すべく、院内イントラネットに急ごしらえで災害用掲示板をつくってもらい、情報の一本化を図りました。院内の情報整理と体制づくりは院長・救急部長等が行っているかたわら、集まったスタッフでDMATチームを結成しました。
ちょうど休みであった他のスタッフは、アクアライン上で交通が完全にストップしてしまい、余震の恐怖におびえながらなんとか時間をかけて病院に戻ってきました。大阪に向かっていたスタッフも急きょUターンしました。
結成されたDMAT1隊目は私staff-bともう1名の医師、看護師3名、事務2名という組み合わせでした。県からの出動命令を待ちますが、なかなか出動命令が下りません。出発したのは21時過ぎで、参集拠点である筑波メディカルセンターへ出発しました。高速は全線通行止めでしたが、緊急車両ということですべて通してもらい、午前1時過ぎに筑波メディカルセンターに到着。DMAT隊は10隊程度がすでに到着しておりました。同じ千葉県で救急を担っている亀田総合病院のDMAT隊や千葉大学医学部附属病院のDMAT隊とも連絡を取れました。筑波メディカルセンターのあたりは電気も通じておりましたが、参集場所の会議室の天井は一部崩れており、地震の爪痕を感じさせました。そこで、倒壊した病院から他院への緊急転院搬送を命じられ、某病院から他の病院へと全員の患者さんを転出させるべくまず活動が始まりました。
各地からきているDMATと協力して転院搬送を行います。この病院周辺は完全に停電しており、信号ももちろんです。そこかしこ道に亀裂が入っており、普段の感覚で運転すると段差でがったーん、となります。
朝6時ごろまで転院搬送支援を行い、そのあと某市市役所の地域本部に出発しろという命令が下り、そのまま車で出発。ガソリンの残量が気になりますが、
ガソリンスタンドはすべて停電のため給油不可。コンビニもすべて閉店していま
す。
高速道路で移動を開始しました。早期に高速が通行止めになっていたため高速道路SAのコンビニは営業していないまでも商品が残っていました。なんとか店をあけてもらい食料を確保。
行きのラジオでは福島の原発からの放射能もれが・・・ というニュースを繰り
返し流しています。
9時前後に某市市役所に到着しましたが、市役所は避難所となっており人でご
った返しています。トイレも水が流れず(大)の方はもう悲惨な状況になってい
ました。
市長・議長と挨拶ののち、行動開始まで一時間ほど会議室で休憩。津波の影響を調べるべく自衛隊が出るため、その医療活動支援、および緊急救護所の設営のためにDMAT4隊が導入されました。
われわれが派遣されたのが某市立病院。震災で壁には亀裂が入り、ライフラインはすべて途絶えています。入院患者は70名あまりおり、スタッフは直来
患者の対応をしているとのこと。昨晩は死傷者・重傷者含め多数の傷病者が来たとのことでした。院内の電気は発発でなんとか照明のみ、水はタンク内、電話は完全に途絶えている、人工呼吸器患者が四名いる、という情報です。
自衛隊の救助から重傷者が多数搬送されてくることを想定し、2隊のDMATで院内の外来の構成を変え救護所を設営。自衛隊と本部に連絡をとろうにも、携帯電話はほとんど不通。消防の人が来てくれており、消防無線経由で本部と連絡するような形としました。
自衛隊の情報は全く入ってこず、すなわちこちらで「緊急救護所を開いた」という情報も伝わっていないことがわかりました。本部経由で自衛隊と連絡をとってもらいましたが、自衛隊では被災者があまりいないため、規模縮小しているとのこと。
院内の人工呼吸器つき患者の搬送を行うため、本部に確認しましたがこれに時間がかかり、市の救急車も用いなんとか午後くらいから転院開始。ひるがえって見てみるとこの病院はライフラインは完全途絶、電気もガソリンが尽きたら完全に終了・・ 電気の復旧すら見込めていない・・
入院患者全員の転院搬送を決断しました。本部に連絡を取り、全員の転院を開始。近隣の医療機関をメインに、なんとか茨城県中の医療機関へ、長距離の転
送を他のDMAT隊に依頼します。他からもDMATを増隊してもらい、愛知・大阪・静岡・茨城の各DMATと協力し、なんとかピストン輸送を繰り返し、転院搬送を行います。最後は午前一時すぎに我々も南茨城の某病院に患者搬送を行いました。
各隊もまったく寝ずにずっと働いており、震災で街灯や信号は完全に消えている、下手するとカーナビもない状態である、という隊もいました。「疲れているから
もうやばい」という声も(ニュアンスでなく、本当に)聞こえており、各DMAT隊員のストレスも相当のようでした。
午前4時すぎに、君津中央病院に撤収。およそ46時間の不眠不休の活動でした。
そのあと病院で寝てしまい、昼ごろ起きてこれを書きました。
今投稿しているのはそれを編集したものです。
被災地は完全に情報が隔絶されており、われわれも情報入手は消防無線のみでした。情報発信はなんとか携帯が通じたときに君津のスタッフに電話し、DMAT災害用掲示板に流して情報共有を行いました。インフラストラクチャーっていうのは空気みたいなもので、普段はインターネットがあって当たり前、携帯電話があって当たり前、という状況なのですが、災害時に情報が伝わらない、というのは問題であると強く思いました。
そのあと、間髪入れずにDMAT2隊目が出動したのですが、これについてはどこかで掲載したいと思います。